覚書 石橋秀野のこと

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山本健吉の最初の妻が俳人・石橋秀野である、
ということを、最近まで知らなかった。
石橋秀野は、wikipediaにこのように書かれている:
明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる。
旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。
文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学ぶ。
大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。
昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、
石橋姓となる。
昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、
石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。
後に「鶴」課題句の選者となり、
「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、
松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。
昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため
京都に転居。
しかし戦時中の疎開生活中に病に冒され、昭和22年(1947年)9月26日、
京都宇陀野療養所にて逝去、39歳であった。
句文集「桜濃く」(1949年)は10年間の作品と随筆12編他を
追悼の意を込めて刊行され、「桜濃く」は第一回茅舎賞を受賞する。

『定本石橋秀野句文集』(富士見書房)を読むと、
秀野が文化学院時代に書いた作文が載っている。
それは虚子が出した課題:「俳句を作り始めてから、何らか貴方々の心持の上に
又た日常生活の上に(主として趣味の上に)変化を来したことがあれば
書いて御覧なさい。」に対して書かれたものである。
「(前略)俳句を作るといふことは、容易いことであると思ふ。しかし
真実の俳味を味ひ、真実の俳境に達しやうとするのは非常に困難である。
俳境に於る感情は仏教でいふ三昧と同様である。
理論もすべてその要をなさないものである。その自由であり、
高尚であり、禅昧の豊な点に於て、俳句は墨絵のやうな味ひを持つてゐる。
俳人はワイルドである。芭蕉にしろ、一茶にしろ、唯然にしろ、
すべてその生涯はワイルドであつた。
そして各々が人間性の真実を描き得た一個の写実主義者であつた。
その十七文字に表はされた心持はどんなにか心理を物語つてゐるであらう。
人生が深遠であるやうに俳句も亦深遠である。
一歩一歩人生の道を辿つて行くやうに、
一歩々々俳境に自分自身を近付けて行くために私は努力をし度いと思ふ。」
これに対する虚子の評:「この答案は私の問題と離れて
少し堂々とし過ぎてゐるが、しかし兎に角、
女学校の三年生でいてこれだけのことが言へるのは感心だと思つた。」
というものであった。
(山本健吉は「これは彼女の文章の活字になつた始めであらう。」と書く)

その後結婚し、横光利一の十日会句会に参加するまでの約9年間は、
二三の俳句を作ったくらいだったというが、健吉は
「結婚後八年ほどほとんど句作廃絶の後、横光氏を中心とする『十日会』に入つた時、
昨日まで句作を続けてゐたものの如く淡々と作り出したのも、
少女時代にすつかりその道は自分のものにしてゐたゆゑであらう。」と書いている。

この頃の、選句に添えて書かれた文章にこのようなものがある。
   妄選談(課題句「百日紅」)
佳句とすべきものなく、百日紅と有機的連絡に乏しい句が多い。
たとへば百日紅とある上五句を春雨やとおき代へても紅梅やとおいても
差支へなく敢て百日紅でなくてもよかつたと云ふ感である。
頭デツカチで足がない。これは百日紅と持つて来ると、
字数が多く、や、かな、けり、の入れ場に
当惑した形で句としてしまりがないのに理由があらう。
この場合写生に依つて生まれた句は巧拙は別としても
必ず上五句も下の句もぴつたりと結びついたものがある筈である。
個々の作品評はさける。もつと平坦な云ひ廻しでよいのを殊更むつかしく、
たとへば入日でも夕日でも充分美しく意味が分るのを落暉と云ふのなど、
そのため句の値打がちがふ様に思ふのは錯覚である。

平談俗語を駆使しても俗にはならぬものである。詠嘆に肩を怒らせば、
内容は却つて間が抜ける。句は字面で読むためでなく、
唇に上らせ耳に聞え、心に響くものである。(後略)
なかなかにハードな文章。健吉は「藪三娘を悲しむ」で
秀野の俳句についてこのように書いている。
さう言へば彼女の俳句にも、女らしい弱さはないのである。
男じみるのではなく、完璧に女らしい豊かさの中に一種の強さを
みなぎらして行く――彼女の俳句はこのやうな方向を
指向してゐたやうである。
強さ、弱さといふのは要するに造型意志の問題なのだ。
文字を彫りつけることが同時に人間を造型することであり、
命をきざむことであるかぎり、それが女人であれば
女人の体息が濃ゆく染み出て来る筈だ。(後略)」
『定本石橋秀野句文集』で晩年(昭和22年)の句を読むと、
髪を詠んだ句がところどころにあって病状の悪化が痛ましい。
きさらぎの銀河あえかに髪濡るゝ   (2月)

夏ちかし髪膚の寝汗拭(のご)ひ得ず   (5月)

この頃の句:、
  ひるの蚊を打ち得ぬまでになりにけり   (6月)

     家人に
  短夜の看とり給ふも縁(えにし)かな


かなしさよ夏病みこもる髪ながし   (6月)


   かく衰へて
梳る必死の指に梅雨晴間   (7月)

そのあとに:
  妻なしに似て四十なる白絣

  裸子をひとり得しのみ礼拝す

  西日照りいのち無惨にありにけり
当時について、健吉はこのように書く:
そしてそれは彼女の病中吟に於て極まつたのである。
そこには死を前にして絶対絶命の生命の慟哭が聴かれるのである。
彼女は素逝のやうな、肉身の存在を見失つてしまつたやうな
弱々しさを好まなかつた。
彼女は子規や茅舎の病中吟に見られるやうな強さを好んだ。
そしてその精神力の強さが、彼女の病状の進行を
私たちの目からさへも蔽つていた嫌ひがある。…

7月21日、病状が悪化し、入院となり、それ以降9月26日に亡くなるまで
句作を医師によって禁じられる。
彼女の最後となった句は、入院時に母を追う一人娘安見子(当時5歳)を
詠んだ句であった。

   蝉時雨子は擔送車に追ひつけず

私が石橋秀野とその句を知ったのは高橋睦郎の『百人一句』(中公新書)で、
そこに挙げられていたのは、昭和19年の句である。

   眦(まなじり)に紅決したる踊りかな

彼女の生涯と句を辿っていくと、『百人一句』に書かれているように、
この句こそ秀野が自身を詠ってように思える。
写真を見るとたいへんな美人であるが、
今このような女性になかなか出会えないと思うのは、
芯に秘めた強さと成熟した人間性・女性性のゆえかもしれない。


注記:
上記引用は『定本石橋秀野句文集』(富士見書房)による。

  蝉時雨子は擔送車に追ひつけず
は、「担送車」と表記されているが、絶筆の写真のとおり、旧漢字とした。
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by youyouhibiki | 2010-06-17 13:56 | 詩歌(下記以外) | Comments(0)


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