コルベ神父 (3)

1930年にコルベ神父は日本に行って
日本語の『聖母の騎士』誌を出すことを思い立ちます。
ゼノ修道士ら4人の修道士とともに長崎にやってきますが、
「お金ありません」「日本語わかりません」という状態でした。

しかし、長崎の神学校でコルベ神父が神学を教えるという条件と
引き替えに雑誌を出す許可を得て、ともかく日本語版『聖母の騎士』は
発行されることになりました。
4月24日に日本上陸して5月24日にはポーランドの修道院に
このような電報を出しています。

「今日創刊号を送る。印刷所も設置した。無原罪聖母万歳。マクシミリアン」

ポーランドにいたときも、コルベ神父たちはすべてのお金を
雑誌刊行に当てていました。
冬、厳寒の地で、外套や長靴がなくてはやっていけないのに、
二人で一組分を共有していました。ですからひとりが外出するときは
もう一人は外出できませんでした。

コルベ神父は、20歳くらいのときに肺結核にかかり、
片方肺を摘出していました。
もう片方の肺も半分しか機能しませんでした。
呼吸もままならず、微熱、頭痛などに悩まされていましたが、
重い紙を運ぶ馬車代ももったいないからといって利用しませんでした。
「いったいいつ寝ているのか」というくらい、
ほとんど不眠不休で祈り、働きました。

日本にきても、お茶に入れる砂糖代すらも節約し、
不眠不休で印刷をしたといいます。
最初は印刷所に頼みましたが、お金がかかるので
自分たちで印刷機と活字を買いました。

日本語の『聖母の騎士』ができるまではこういったぐあいでした。

まず、ポーランド語でコルベ神父が原稿を書き、
翻訳してくれそうな数名の日本人修道士のうち、
手があいていて翻訳してくれそうな人に何語ができるか聞きます。

コルベ神父は、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、ラテン語などが
できたので、相手のできる言語に自分で訳します。
それを修道士が日本語に訳し、活字を拾い(ルビ付きだった!)、
手回しで印刷する。
はじめて自分たちでつくった『聖母の騎士』第三号は1万5000部、
16ページ立てだったので8ページ刷りの手回し機を3万回
回したことになります。
紙も半分に切らなくてはならなかったので、
まとめてノコギリで断裁したのだそう。
そしてそれを手折りにする。寒い時期は指に血がにじむことも
あったといいます。
綴じだけはゼノ修道士が足踏みの綴じ機を考案したのでラクだったといいます。
最後はさすがにまわりを業者に化粧裁ちしてもらったそうですが…。

しかしそもそも活字を拾うといっても、日本語分からないので、
原稿にくずした字があったりするとたいへんだったようです。
しかも活字はさかさまだし…。。
原稿の字が活字にない、というのであわてて活字を買いにいったら
「その字はこれですよ」と言われたことが何度もあったようです。
夏の暑い時期は汗をかくので足もとに汗がたまり、
乾いて塩がふいていた、というのも決して神話ではありませんでした。

長崎はもともとカトリック信者の多い土地ですが、
信者だけではなく一般の人、プロテスタントの牧師さん、
お坊さん、など多くの人たちが手をかしてくれました。
「どんな雑誌を出しているか」よりも「あんなに熱心に、
しかも自分を犠牲にしてやっておられるのを見過ごしにできない」
ので、手伝ってくれたようです。

『聖母の騎士』は1932年には日本での発行部数は
5万部になりました。
長崎の本河内というところに広い土地(ただしそこは昔の
キリシタンの処刑地で、馬や牛など家畜の死骸を捨てる場所に
なっていた)をなんとか購入して小神学校をつくるところまで
こぎ着けました。

コルベ神父は1936年にポーランドの修道院に呼ばれて戻りますが、
本国からかわりの神父がやってきて監督にあたり、ゼノ修道士らは
残って、引き続き『聖母の騎士』の刊行にあたりました。

この雑誌は、いまもあります。
先日、教会に行ったついでに売店で買ってきました(写真)。
さすがに有料ですが、B5版本文36ページモノクロ、
定価は140円でした。
8月号はコルベ神父が亡くなった月でもあるからか売り切れ。
9月号の「編集室から」には、1932年にポーランドから
やってきたセルギウス・ペシェク修道士が100歳の誕生日を
迎えた、と書かれていました。

     *

主に印刷にスポットをあててコルベ神父について書いてきましたが、
コルベ神父はどうしてこんなに熱心に『聖母の騎士』発行に
情熱を燃やしたのか? とお思いの方もいらっしゃると思います。
うまく伝えることができるか、はなはだ疑問でありますが、
次回はそのあたりを書こうと思います。

     *

以下に載せるのは、長崎でコルベ神父に実際に会った永井隆氏の
文章です。
私が読んだ資料の中で、直接コルベ神父に出会って書かれたのは
(今のところ)これだけですので。

     *

「微笑の秘けつ」   永井隆(『原子野録音』より)

 長崎市本河内の彦山のふもとに荒野を開いて聖母の騎士修道院が建ち、ようやく市民の目をひくようになった昭和10年のことだった。
 私が訪れたとき、コルベ神父さまは自室で机にむかっておられた。部屋といっても2、3人やっとはいれるくらい粗末なバラックで、私は初めは物置かと思ったほどだった。十字架とマリア像と聖書と祈祷書と書類とペンと筆のほかには、目ぼしい物は見当たらなかった。コルベ神父さまは初対面の私を迎えて、身体じゅうが微笑むような姿で両腕をひろげて差し伸べられた。握ってみると、大きな熱い手だった。私はこれは38度を越す熱があるな、とびっくりした。「御病気じゃありませんか?」とたずねた。
「ドクター、みて下さいますか?」
と神父さまは相変わらず微笑みながら言われた。私は聴診器をとり出して診察した。そして、あわてたように大声でいった。「これは大変です。神父さま、両方の肺が結核におかされているようです。しかも重い。すぐに絶対安静を守らねばなりません」。
 神父様はやっぱり微笑をうかべなばら、「ありがとう、ドクター。あなたは名医です。なぜならローマやポーランドや、その他の国々で有名な医者にみてもらったときと全く同じ診断を今あなたが告げましたから。アノネ、10年前からいつも同じ診断ですヨ」としずかに言われた。
「えっ! 10年前から?……」
 私はそう叫んだきり、息をつめて神父さまを見た。微笑んでおられるが、呼吸は楽ではなさそうだ。たった今、聴診器を通して知った肺の中の大中小さまざまの激しいラッセル音が耳にこびりついていた。この重い肺病をもちながら、世界じゅうを走りまわって聖母の騎士運動を長い年月続けているとは! しかも10年前から病状は固定して、好くも悪くもならないとは!
医学の常識ではとても考えられないことであった。肺の5分の4はおかされて役に立たぬし、高い熱は続いているのだから、普通の病人なら、すでに寝こんでしまっているはずである。私がしきりに首をひねって考えこんでいると、神父さまはロザリオをさし上げて、「これですヨ、これですヨ」と、うれしそうに言われた。
[PR]
by youyouhibiki | 2012-08-14 22:30 | コルベ神父 | Comments(0)


本のこと、詩歌のこと、美術展のこと、and so on...


by youyouhibiki

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

about me

カテゴリ

全体
美術
詩歌(下記以外)
 連句・歌仙
本(下記以外)
 装幀・デザイン
 アルスのノートと本
 平安~鎌倉の文学
 芥川/片山廣子
 ポール・クローデル
 ウィンター/ディキンソン
音楽・演劇・映画
旅・散歩(下記以外)
 練馬/東京散歩
 鎌倉散策
 花遍路 豊島八十八箇所
写真
仕事
思う・考える
コルベ神父
つくる
衣食住
Dogs & Cats, etc.
子ども時代
未分類

検索

以前の記事

2017年 07月
2017年 06月
2015年 07月
2015年 01月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 01月
more...

記事ランキング

最新のコメント

コメントありがとうござい..
by youyouhibiki at 23:51
コメントありがとうござい..
by youyouhibiki at 22:54
古書通さま お知らせあ..
by youyouhibiki at 14:08
昨日、小町通に行きました..
by 古書通 at 08:31
dizire_san ..
by youyouhibiki at 00:04

画像一覧