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丸谷才一『後鳥羽院』その2

折口信夫によると、和歌という文学形式は呪言によって生まれ、
儀式となり挨拶となった。そしてその場こそが宮廷であった。

後鳥羽院と定家の対立の原因について、丸谷才一は
「定家が歌の場としての宮廷を重んじないで、
和歌をもっと純粋な文学に仕立てようとしているということ」
にあると言う。
定家が、宮廷を見放して、詩という個人の世界に籠もろうと
するのに対して、後鳥羽院は「承久の乱」を起こして、
宮廷という文学の場を保とうとした、というのが丸谷才一の推理である。

いま大事なのは後鳥羽院が宮廷と詩の関係を深く感じ取っていて、
宮廷が亡ぶならば自分の考えている詩は亡ぶという
危機的な予想をいだいていたに相違ない、と思われることである。
それは彼にとって文化全体の死滅を意味する。
彼はそのことを憂え、詩を救う手だてとしての反乱を
ほしいままな妄想に耽ったのではなかろうか。(P292)
承久の乱を起こした後鳥羽院の心の内には
他にもいろいろな思いがあっただろうから、一概にそれだけが原因とは
思わないけれど、少なくとも、和歌の道は
このあたりで大きな節目を迎えたようである。

詩人の精神のいとなみがその基盤としての具体的な場を持たない
という不幸は、長く日本文学の悩みとなった。
詩は孤独なものに変じ、孤独を埋めるだけの力は
詩人になかったのである。
そう考えるとき、芭蕉の歌仙は詩の場を持とうとしての
烈しい新工夫としてわれわれに迫ることになるであろう。
彼は草庵において宮廷をなつかしむことを
一つの儀式として確立した。(後略)(P291)
芭蕉云々については後日譚に属すと書かれているが、
日本文学の特徴をこのような文学史的な流れの中で見ると、
納得することがあるようにも思い、とても興味深かった。
by youyouhibiki | 2008-08-14 15:54 |  平安~鎌倉の文学


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