カテゴリ: 平安~鎌倉の文学( 14 )

文楽に行く

お友だちからある晴れた朝突然に、文楽のチケットがまわってきました。
いわゆる「たなぼたチケット」です。喜び勇んで行きました。

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                     源平布引滝
                     襲名披露口上
                     傾城恋飛脚

お昼の部ははじめてだったのですが、なんと11時から始まるのね。
午前中からお芝居(浄瑠璃)見ている自分、ってのがずいぶん不思議な
感じがしました。

ところで「源平布引滝」は平家物語の「実盛最期」を下敷きにした作品です。
クラシック(オペラ、歌舞伎その他)は予習してできるだけ楽しむところを
楽しもうという私(勉強家というよりエキュペリアン?)、
予習怠らず「平家物語」の「実盛最後」の段を読んでいきました。

実盛は元・源氏ですが戦いに敗れたあと平家側となります。
しかし源氏への忠心を完全に捨てることができず、
木曽義仲(源氏)が幼いときに逃してやり、
やがてその運命の糸はめぐりめぐって義仲勢討たれて果てるという最期となります。

最後の戦では、老いていることを隠すために白髪を染めて戦いに挑みます。
そのために、討たれてしばらくは実盛とはわからず、
池で首を洗ったところ、染めが落ちて実盛であることが分かった、と平家物語には
書かれています。

浄瑠璃では、その実盛が幼少で追われる身の木曽義仲を逃がすあたりがちょうど描かれ、
舞台の一番最後では予言として(そして客席はその最期をすでに知っている)
自分の最期を語ります。
因果応報の「因」を描いて「果」を焙り出しているとでも言うのでしょうか、
お終いを知っているからますます悲劇性が増していく、
そんな浄瑠璃でした。


帰ってからも図書館で
『物語の舞台を歩く 平家物語』(佐伯真一 山川出版社)という本を借りて
読んでいます。

著者が平家物語の研究家だけあって、いろいろなことに詳しく、
「なるほど平家のこの部分はこういう史実だったのか}と膝を打つことが多かったです。

それから実盛が身に付けた兜が遺されていて
それを見て芭蕉が読んだのが 

  むざんやな 甲の下の きりぎりす 

であるということは、高校のとき習った記憶があるのですが、
その当時から今まで、「義仲勢に討たれた人」くらいの認識しかありませんでした。

今回いろいろ調べて、まず「むざんやな」は平家物語で樋口次郎が
実盛の首を見てもらした言葉「あなむざんや」を踏まえたものであること、
実盛は虫になったという言い伝えがあり、それを踏まえていること、
そしてまた浄瑠璃や平家物語、謡曲などで語られた実盛の物語を
踏まえていることを知ったのは大きな収穫でした。
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by youyouhibiki | 2011-05-31 23:23 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

『歌帝 後鳥羽院』

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『歌帝 後鳥羽院』(松本章男著・平凡社・本体3200円)

またもや平凡社のブログで知りました。
でもさすがに金額が金額なので、まずは図書館で借りてみました。
そしてそろそろ返却期限が迫ってますが、やはり少ししか読めませんでした。

本文より:
 伝統的な日本の民族意識の源流を、
 後鳥羽院の和歌と行実のなかから探ってみたい――。

 私はこの国の大量生産・大量消費・大量廃棄の
 社会システムが行き詰ったところから、
 後鳥羽院を意識裡におくようになった。
 自然と共生する循環型社会が形成されるのを
 ねがう思いと通底して、
 この歌帝を回顧しておきたい感情が
 ときおり沸々とわきあがってきたのである。

 平安末期から鎌倉初期へかけて約百年間という全長の期間、
 この百年間は日本という国がかつて体験した、
 社会システムの最も大きな転換期であった。
 後鳥羽院はその激しい地殻変動にいわば体あたりをしている。

 もとより本書の執筆は、
 歌人たる天稟にめぐまれていた後鳥羽院の、
 人の心を魅了する作品を吟味しつくすことを目的とする。
 一方ではしかし、この歌帝が日本社会の未曾有の
 転換期にいかに対処したかも見きわめたい。
 つまるところ、複眼的考察を心がけて、
 後鳥羽院の人間像を興味ぶかく把握してもらえるよう、
 わかりやすく、その全生涯をも
 年代記ふうにたどりたいと思うのである。

後鳥羽院というアンナプルナ(?)に挑んだ著者・松本氏は
もと人文書院の取締役で、引退後著述業に入られたという。
現代の実社会を生き抜いてこられた方の目を通して
何をどう読み、語っておられるのか。。。
近いうちに必ず読んでみようと思う私でありました。
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by youyouhibiki | 2009-06-09 00:07 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

『藤原定家の熊野御幸』

『藤原定家の熊野御幸』(神坂次郎・角川ソフィア文庫)を読みました。

後鳥羽院(当時22歳)のお供で熊野に行く定家(40歳過ぎ)が書き記した
熊野御幸記』をもとに、やさしく定家の行状と熊野を解説した本。

なのだが、作者が小説家だからかちょっと小説っぽく書かれてもいて、
読んでいて電車の中で吹き出しそうになる箇所がありました:

(後鳥羽院一行より先に逗留地に行き、神社にお参りする役目の定家、
ある神社では)(以下引用)
「遙拝は、御幣をとりて拝舞」
せねばならぬという。
「ええっ」
定家は狼狽(あわ)てた。
それはそうだ。奉幣使というのは、御幣を神前に捧げ、
笏をもってぬかずけばよいのである。
が、苦虫を噛みつぶしたような顔つきで定家は、
「社司の訓(さとし)によりて御幣をとり」
再拝し、袖を左右に振り、手足を動かし足を踏み、立ち、また座して
左右左を演じさせられる破目になってしまった。

定家が舞いおわると、その御幣を受け取った社司は……祝詞をあげさせた。
ながい祝詞であった。やがてそれがおわると、
神官たちはまた中門の外にでて、こんどは還祝(かえり)をあげはじめた。

それにつれて定家もまた、東側の薦の上に坐り替えさせられ、
次には御幣を二本両手に、またしても拝舞させられるという
始末であった。……

熊野詣ではあまりにもハードなので
家臣も「故障」を理由に付いていかないことが多いのに、
昇進の契機にならないかとお供する定家。
(定家は当時、20歳くらいの人たちと同じ官位だった。)

後鳥羽院は24年の在位中に28回も熊野詣でをするほど
「熊野大好き」。文芸などインドアも好きだけど、
たぶんアウトドアがもっとお好きだったようで、
そのアウトドア派の後鳥羽院と、完全インドア派の定家で、
熊野詣では完全にミスマッチ。

で、仕事(宿の手配など)と山道に疲れはてて寝坊はするし、
夜は疲労困憊なのに後鳥羽院から和歌のお誘いがくるし、
大雨に打たれて風邪を引いて咳も止まらなくなり、
最後の方の日記は毎日、数行のみ……。

やっと京に戻ってきて一旦昇進の内定をもらうものの、
昇進できず、定家は二度と熊野に行かなかった……。

という風に書くと、どこか現代の私たちに通じるような気もするのですが……。

定家の『熊野御幸記』はのちに国宝になりました(^^)v。

上の引用箇所を読み下し文で読むと、
上記ほど滑稽ではないけど、社司の服装がひどいと書いたり、
定家の憤懣やるかたないあたりが出ているような気がします。

先に出でて御祓所[ワザ井ノクチ]を儲、
日前宮の(日前宮奉幣使い勤仕の事云々)御奉幣也、
(予御幣使となる、其儀) 小時、此所に於いて御祓あり、
予は御幣取りて立つ、御祓訖りて廳官に返し給う、
神馬二疋を引かしめ、御幣を相具して、日前宮に参る。

社頭は甚だ嚴重なり、淨衣折烏帽子は甚だ凡也、
但し道之習ひは何んと爲さん乎。
両社に坐する之間に中央の石帖(舞臺の如し)の上[こも
二枚を敷いて座となす、切中は西東の料か]社司之訓に依りて、
御幣を取りて拝す[前後の両段]社司に付して[御使は御幣を取りて拝舞す、
其の例を知らず、諸社の奉幣使は御幣を社に付して、
笏を以て拝するか如何]社司は唐笠を差して來る。
[日影當らざるの料を云々、普通の束帶也、但し此男は大宮司の
子男なりと云々、其父に於いては紙冠を戴き、
戸外には出でず僅かに見えて戸内に在り]
御幣を取る、黄衣冠の神人を以て、中門の戸内に入らしめ、
祝の音を聞き訖りて、神人又中門を出で還祝あり、
予は立ちて束薦に座す、又御幣[本より二本也]を取りて拝し
同じく社司に付く、次第如例訖退出

蛇足:
定家のちょっとズレてる感というのは、
もともと激動の時代に「紅旗征戎(コウキセイジュウ)吾ガ事に非ズ」と
言いのけたことに象徴されるのだろう。
そして我が道を邁進。ゆえに今に残る「定家」になったということなのだろうか。。。
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by youyouhibiki | 2009-01-24 12:01 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

鴨長明さん

先日のブログ『方丈記』では、かんじんなところを
端折ってしまったので、また書きます。

『方丈記』は、とても短いけれど端的な文章で、
おそらく一気に書き上げられただろうと言われています。
どれくらい短いかというと、これくらいです。
ちょっとスクロールすると、終わりまでいってしまいます。

よどみない文章ですが、それを起承転結に分けると、こんな感じです。

起:
有名な「行(ゆ)く川の流れは絶えずして、しかも もと(本)の水にあらず。
淀(よど)みに浮ぶ うたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、
久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。」
で始まります。
この「起」にあたる部分で、全文がきちんと要約されています。

承:
長明さんの前半生に起こり、実際に目の当たりにしたことが書かれます。

  安元の大火
  治承の辻風
  福原遷都
  養和の飢饉、
  元暦の大地震

中野孝次さんも、とてもジャーナリスティックな目をしている、と言う通り、
簡潔な文章でありながら具体的で、核心に迫っています。
天災で亡くなる人たち、しかも政治を司る方はなすすべもなく、
福原遷都に至っては、人災とでも言うべき被害でした。

転:
結局、家や財産を持っていて、それを失うまいと躍起になっても、
天災や人災でどうなるか分からない。
金持ちや身分の高い人の隣りに住むだけでも、
いちいち気を遣わなくてはならない。
それに引き替え、幸い自分は妻子もなく、
方丈の家に独り住めば、これほど楽なことはない。

と、こうして独り住まいをするようになった長明さんは、
完全な「自由人」となります。

「もし、歩くべきことあれば、自ら歩む。
苦しといへども、馬・鞍・牛・車と心を惱ますには、しかず。
今、一身を分ちて、二つの用をなす。
手の奴(やつこ)、足の乘物、よくわが心にかなへり。
…いかに況んや、常に働くは、養生なるべし。
何ぞ徒(いたず)らに、やすみ居らん。
人を惱ますは、また罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。」
人を使うのではなく自分の手を奴とし、足を乗り物としているのです。

  「いかゞ他の力をかるべき。」

なかなか言えることではありません。

そして、前に引用したように、独りで住むことを楽しむのです。

結:
それではこれでハッピーエンド、と思うと、そうではありません。
長明さんは自問します。

「佛の人を教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。」
仏教では、「執心を持つな」と言っているのに、
自分は仮の庵の生活を楽しみ、その生活にまた執着しているではないか?
お前は煩悩の中にいるではないか?
そして、答えるともなくこのように書いて文章は終わります。
その時、心さらに答ふることなし。たゞ、
傍(かたわら)に舌根(ぜっこん)をやとひて、
不請の阿弥陀佛、兩三遍申して止みぬ。
  「そこでわたしは、何も答えぬ心のかたわらに舌をやとって
  心はさほど請い望まぬまま、阿弥陀仏の名を
  両三遍となえて、終わりとすることにした。

ここのところは、様々な解釈が可能でしょうが、
もし、否定に否定を重ねても、今度はその「否定すること」に執着することになる。
だから阿弥陀仏と三遍となえて、これで終わろう。。。
という意味かと思いました。
そこで、阿弥陀仏への信心がどれほどのものだったか。。。
それは仏様だけがご存じ。。。だったのではないでしょうか??

鴨長明さんは、河合神社の跡を継ぐことができず、
後鳥羽院が「ほかの神社を与えよう」と言ってくれたにもかかわらず
「河合神社でなければ、イヤ!」と言って出家しました。
そして住んだのが方丈の庵です。
後鳥羽院の申し出を断ったとき、周りには
「頭がおかしくなった??」と思った人もいたそうですが、
長明さんにしてみれば、権力の側に身を置くことも
すでに虚しくなっていたのかも知れません。
ひとつだけ望んでいた河合神社の禰宜になれなかったときに、
長明さんは、全てを捨てる決心をしたように思いました。

自分の手足で働いていた長明さんを、あるとき貴族が見て
「ずいぶんやつれていた」と言ったそうですが、
恐らくメタボだった貴族より、きっと長明さんの方が健康的だったでしょう。

定家や後鳥羽院とは、会っても話が合うとは思わないけど、
長明さんだったら、ちょっとお話してみたいかも。。。
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by youyouhibiki | 2008-09-07 18:20 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

『方丈記』

昔、祖母が持っていた与謝野晶子訳『源氏物語』、
4号(5ミリ四方)くらいの活字で組まれていて
ページ数が1000ページ以上あり、本の厚さも10センチくらい。
子ども心に、
「もっと字を小さくしてページ数を減らせば、軽くなるのに。。。」
と思ったものです。

でも、最近、古典に親しむようになったり、
自分で製本をするようになって、
「古典を読むなら、字が大きくて間があったほうがいい」
と思うようになってきました。
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先日の『すらすら読める徒然草』(講談社・中野孝次訳・解説)に続いて
『すらすら読める方丈記』(同)を、書道の先生にお借りして読み、
その思いを強くしました。
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『すらすら読める方丈記』では、上段に原文、下段に中野孝次氏の訳、
その後ろに中野孝次氏の解説が配置してあって、
とても読みやすく奥の深い本に仕立ててあると思いました。
『枕草子』『徒然草』と並ぶ、日本の三大随筆のひとつ『方丈記』、
出だしのところは有名だけど、それから続く文章も、
リズムがあって、それはそれは素晴らしいものです。

『方丈記』については、高校の授業でも少し習ったし、
時代背景についても、聴いたはずですが、
まったく覚えていません。orz
最近、この時代の本を読んで、時代背景なども少し知るようになり、
はじめて分かったことだらけでした。

特に印象に残ったのは、
○鴨長明さんが出家してからは人を使わず、完全に自由人として
 生きたこと。
 (このような生活を「人を雇える立場にいる多くの人」が実現したのは、
 産業革命以後なのでは?)

○折りたたんで移動可能な、いわゆる「プレハブ住宅」を作ったこと。
 『方丈記』を「住宅論」とする読み方もあり。
 (天変地異や遷都で、「所有する」ことの虚しさの現れでもありました。)

○「和漢混淆文」で書かれたものはそれ以前にもあったけれど、
 『方丈記』が最初の優れた文芸作品であると言われていること。
 (後鳥羽院が神社を与えるという有難い申し出を蹴って、出家するという、
 孤独な状況に辿りつかなかったら、きっとそれは生まれなかったでしょう。)

○長明さんの幸福論、人生観。
 (長くなるので省略)

長明さんが、どうしてもなりたいと思ってなれなかった河合神社の禰宜。
でも、ネットを調べてみたら、今はなんとそこに、復元された方丈の住居が
建てられているそうです
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長明さんは、『方丈記』を書いたあと、源実朝に和歌を講じるために、
鎌倉へ出立したそうです。
そこでどんな話をしたのかは、この本には書かれていません。
買い置きしてある吉本隆明の『源実朝』を次に読んでみれば、
その時の模様が描かれているかもしれません。。。


おまけ(『方丈記』より一節):
また、ふもとに一つの柴の庵あり。
すなはち、この山守が居る所なり。
かしこに、小童あり、時々來りてあひ訪ふ。
もしつれづれなる時は、これを友として遊行す。
かれは十歳(とお)、われは六十(むそじ)、その齡、ことの外なれど、
心を慰むる事、これ同じ。

或は茅花(つばな)を抜き、岩梨をとり、
零余子(むかご)をもり、芹をつむ。
或はすそわの田井に至りて、落穂を拾ひて穂組をつくる。
もし、日うらゝかなれば、峰によぢのぼりて、
はるかに故郷(ふるさと)の空を望み、
木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師(はつかし)を見る。

勝地は主(ぬし)なければ、心を慰むるに障りなし。
歩み煩ひなく、心遠く至る時は、これより峰つゞき、炭山を越え、
笠取を過ぎて、石間(いわま)に詣で、或は石山を拝む。
もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉丸翁が迹を訪ひ、
田上川を渡りて、猿丸大夫が墓を尋ぬ。

歸るさには、をりにつけつゝ櫻を狩り、紅葉をもとめ、
蕨を折り、木の實を拾ひて、
かつは佛に奉り、かつは家土産(づと)とす。

もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、
猿の聲(こえ)に袖をうるほす。
くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火(かがりび)にまがひ、
曉の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。

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by youyouhibiki | 2008-08-31 21:05 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(2)

丸谷才一『後鳥羽院』その2

折口信夫によると、和歌という文学形式は呪言によって生まれ、
儀式となり挨拶となった。そしてその場こそが宮廷であった。

後鳥羽院と定家の対立の原因について、丸谷才一は
「定家が歌の場としての宮廷を重んじないで、
和歌をもっと純粋な文学に仕立てようとしているということ」
にあると言う。
定家が、宮廷を見放して、詩という個人の世界に籠もろうと
するのに対して、後鳥羽院は「承久の乱」を起こして、
宮廷という文学の場を保とうとした、というのが丸谷才一の推理である。

いま大事なのは後鳥羽院が宮廷と詩の関係を深く感じ取っていて、
宮廷が亡ぶならば自分の考えている詩は亡ぶという
危機的な予想をいだいていたに相違ない、と思われることである。
それは彼にとって文化全体の死滅を意味する。
彼はそのことを憂え、詩を救う手だてとしての反乱を
ほしいままな妄想に耽ったのではなかろうか。(P292)
承久の乱を起こした後鳥羽院の心の内には
他にもいろいろな思いがあっただろうから、一概にそれだけが原因とは
思わないけれど、少なくとも、和歌の道は
このあたりで大きな節目を迎えたようである。

詩人の精神のいとなみがその基盤としての具体的な場を持たない
という不幸は、長く日本文学の悩みとなった。
詩は孤独なものに変じ、孤独を埋めるだけの力は
詩人になかったのである。
そう考えるとき、芭蕉の歌仙は詩の場を持とうとしての
烈しい新工夫としてわれわれに迫ることになるであろう。
彼は草庵において宮廷をなつかしむことを
一つの儀式として確立した。(後略)(P291)
芭蕉云々については後日譚に属すと書かれているが、
日本文学の特徴をこのような文学史的な流れの中で見ると、
納得することがあるようにも思い、とても興味深かった。
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by youyouhibiki | 2008-08-14 15:54 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

丸谷才一『後鳥羽院』その1

私が高校の頃(昭和45年以前)、古典の先生にこのように言われたのが
忘れられない。
「和歌は古今集までです。新古今なんて、読むだけ無駄です。
ほとんどが本歌どりで、技巧に走っているだけですから。」と。

ところがこのたび、『平家物語』や『定家明月記私抄』にからんで、
後鳥羽院のことが知りたくなり、図書館から丸谷才一の
『後鳥羽院』(日本詩人選10 筑摩書房 昭和48年刊)を借りてきた。
そして、これがめちゃくちゃ面白い。
どんな風に面白いかというと、読むのに夢中になりすぎて、
電車を降りそこなったくらい。。。なのだけど、それはさておき。。。

この本は、丸谷才一が國學院大學で英文学を教えつつ
ジェームス・ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』の読書会を
大学の先生としながら読んでいた、そのときに、
新古今集もジョイスの読み方で読むことを思い立ったのちに
書かれたものだ。

『フィネガンス・ウェイク』、wikipediaによると

英語による小説ではあるが、
各所に世界中のあらゆる言語(日本語を含む)が散りばめられ、
「ジョイス語」と言われる独特の言語表現がみられる。
また英語表現だけをとっても、意識の流れの手法が極限にまで推し進められ、
言葉遊び、二重含意など既存文法を逸脱する表現も多い。

『若き芸術家の肖像』以来の神話的世界と現代を二重化する
重層的な物語構成と相俟って、ジョイスの文学的達成の極と評価される。
という小説であるらしい。

そこで後鳥羽院の歌をどのように読んでいくか、であるが、

いかにせん思ひありその忘貝かいもなぎさに波よするそで
A:
  あの人に思いこがれながら長い年月を経たのにその甲斐もなく……
B:
  その恋ごころの辛さから解放されようとして長い間渚に恋忘れ貝を探し求めたのに
  それもむなしくて

という裏表を持つ、「こみいった仕掛けの織物となる」。

さらにまた、

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火
については
「あ」「う」「お」の母音を「この上なく効果的に捉えた秀歌」である上、
「あはれ」には「哀れ」と「阿波」
「よ」には「夜」と「世」
「うみ」には「倦み」と「海」
「わたる」には「渡る」と「海(わた)」
「うらひと」には「浦人」と「占人」「心(うら)」
「ほのか」は「仄か」でありながら「帆」を示し、「焔」を暗示
「ともす」は「灯す」「伴」「艫(とも)」
「おき」は「沖」「起き」「熾」、母音をずらせて「秋」「浮き」「憂き」「息」「生き」「壱岐」
などの複合体として大意をとらえる必要がある、としている。
「折口信夫は『新古今』の歌の散文訳を評して、鶏に羽根をむしったようになると
嘲ったそうである。」としつつも、上の歌の大意を取るとこのようになるらしい。

……哀れなイメージだ、まるで阿波の国のように人の世に倦み果てながら
夜の海を渡るうらさびしい漁師が占いの者さながらに仄かな焔を、
帆と同じみずからの伴侶として船尾に灯すとき、よもすがら起きつづけ
生きつづけ浮きつづけ燠火のように息しつづけながら、
遙かに壱岐を望む隠岐の国の沖の秋の海にもの憂く燃える篝火は。

「あはれ」から「おき」までは執拗に多層的な意味を狙って
雰囲気を濃密にもりあげ、一転して結句の「かかりひ」では
単一の意味によって明確にしぼるあたり、恐ろしいほどの
技巧と感嘆するほかない。(P272)

丸谷才一に言わせると、同時代の源実朝と後鳥羽院は、
生き方も歌も対局にあると言う。
片や宮廷にありながら武術に長けており
片や武士でありながら宮廷に憧れていた。
そして、明治以降の文学の傾向は実朝に軍配があがっていた。

……彼らは批評家としての定家を否定し、批評家としての正岡子規を
よしとしているものらしい。言うまでもなく、定家にとって畏れるに足る
当代歌人はただ後鳥羽院と式子内親王とそれにせいぜい藤原良経だけ
であったろうし、子規にとっての理想の歌人は実朝であった。(P260)


(この項、つづく)
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by youyouhibiki | 2008-08-13 22:47 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

あやしふこそものぐるほしけれ

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あいかわらず鎌倉文学にどっぷりつかっている私、
『方丈記』や『徒然草』も読みたいと思いつつ、なかなか手がまわらなかった。

そんなところへお習字の先生が貸してくださったのが
『すらすら読める徒然草』(中野幸次/講談社)。
実は、『徒然草』というと高校の古典文法でさんざん苦しめられた経験があり、
かなり二の足を踏んでいた。
それに、吉田兼好という人も、なんだか小うるさいおじさんのように思えていた。

ところが読んでみたら、これがなかなか面白く、
吉田兼好はあいかわらず小うるさいおじさんながら、
「そこが面白い」と感じられるようになった。
(その分、私が小うるさいおばさんになっている、ということはさておき。。。)

で、その詳細はこの本なり原文なりをお読みいただくとして、
通読して私が一番奥が深いと思ったのが、あの冒頭の部分。

つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。

(訳)
為すこともなく退屈なまま、日がな一日硯に向かって、
心に映っては消え、消えては映る埒もないことどもを、
浮ぶがまま、順序もまとまりもなく書きつけていると、
自分が正気かどうかさえ疑われるような、
狂おしい心持ちになってくる。

中野氏は、「つれづれとは、侘しく、さびしくてならない、というのではなく、
むしろその反対に、身を閑(かん)の状態に置いて、心が外なる物事との交渉を止め、
己れの内をのぞきこみ……という状態だと解す、と言う。
そして、モンテーニュの『エセー』が引用されているのだが、
なるほど、兼好法師もこういう心境だったか、と思われるような文章だ。

私は最近、いくらもない余生を平穏と隠遁のうちに送ることにして、
できるだけ他のことに心を煩わすまいと決心して自分の家に退いたが、
私の精神を、完全な無為のうちに過ごさせ、自分のことだけを考えさせ、
自分の中に安住させること以上に、これを大切な方法はないと
思うようになった。     (『エセー』より 岩波文庫 原二郎訳)

モンテーニュがこうして公務を辞したのが38歳のとき、
兼行が隠棲したのが31歳のときだったと言われているらしい。
(おじさんと言って、申し訳なかったか?)

中野氏の文章を続ける。
「そうやって己が心に正直に対していれば、その考えるところ、
価値の置き方、物の判断の仕方が、世間並とまったくちがうようになるのは
当然だ。世から見ればそれは狂おしいというおとにもなろう。
だが、何とでも思うがいい。わたしはこの『私』の見るところを
正しいとし、何と思われようとかまわず書きつけることにした。という直言が
この『序』なのだと思っている。」

こういう孤独に生きる、というあたり、以前書いたエミリー・ディキンソンの場合と、
通じるものがあるかもしれない。

が、それとはまた別に、「あやしふこそものぐるほしけれ」という言葉には、
書くことの楽しみが多分に入っているのだろう。
(私は、読んだことのないロラン・バルトの『テクストの快楽』という本の
タイトルを思い浮かべる。)
そう考えると、こんどは「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き」つけた、
その流れが知りたくなってくる。

『すらすら読める徒然草』では、内容を分類してもらって、それを読んでいるので
整然とした感じがするのだが、今回だいたいの内容を知ったので、
最初から通して読んでみたい。。。などという気になったりしている。
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by youyouhibiki | 2008-02-05 23:48 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)

「平家物語のこころ」(大岡信)

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『私の古典詩選』(大岡信 岩波文庫同時代ライブラリー)に
「平家物語のこころ -死の描きかたについて」という一文があり、
建礼門院右京大夫日記にもからめて平家物語のことが書かれていた。

その内容については、本を読んでもらえばいいとして、
平家物語について書かれている大岡信の文章があまりにも上手くて
(大岡氏に「上手い」というのもなんだか失礼な話であるが)
「そうだそうだ」と膝を打った次第。(なのでちょっとだけ引用。)

……平家物語を読んで心にずしりとひびいてくることのひとつは、
平家の人々、また旭日将軍木曽義仲や源九郎義経のような人々が、
まるで疾風にまかれる砂の一粒一粒のようにすみやかに滅びの道を
たどってゆく、その迅速さにあることはいうまでもなかろう。
日本の歴史を通じて、あの時代ほど短期間に
多数の人々の無惨な死と滅亡が重ねられた時代はまれだった、
ということを忘れてはならない。(中略)
平家を読んで得られる、実感としての時間も、
現実の日付がしめす時間よりも、だいぶ長く感じられるのだ。
次々に有名人・無名人が群がり現れ、あたかも、
パンしつづけるカメラの前で、ひととき大写しのアクションを
くりひろげては、また遠ざかってゆくように、遠景にしりぞいてゆく。
その積み重なりが、時の経過の実感をかきたてる。
そして、私たちは、時々実際の暦の日付があまり進んでいないのを見て、
はっとおどろかされるのである。(後略)

……つぎつぎに描かれるものは、壮絶・凄惨な討死であり、
算を乱した敗走であり、いたましい水死であるにもかかわらず、
それらを読みすすむわれわれの心に生じるのは、人力をこえた
歴史の大きな回転の、ほとんどさわやかでさえある非情さへの
感嘆ではないだろうか。(後略)



(写真は以前撮った沙羅双樹。別名夏椿)
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by youyouhibiki | 2008-01-06 00:37 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(6)

『建礼門院右京大夫』(中村真一郎著)を読んだ

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以前、『建礼門院右京大夫日記』を文庫本で読んでみたものの、
古文読解力がないので、内容はほとんど把握できなかった。

右京太夫が平資盛の恋人だったこと、
その資盛が壇ノ浦で亡くなってから哀しみの歌を多く作ったこと、
平家が滅んだ後、もとのあるじ、建礼門院を嵯峨野に見舞ったこと、
くらいが知りえた知識だった。

今回『建礼門院右京大夫』(中村真一郎著・筑摩書房)を読んでみて、
はじめていろんなことが分かってきた。

たとえば、

『平家物語』では、都落ちした平家の若者たちが、大宰府で月の晩、
都を想って夜会を開く場面がある。
ところが『建礼門院右京太夫日記』には、彼らが都落ちする前、
まだ権勢を誇っていたときの美しくきらびやかな月見の会の場面が出てくる。
なので日記を読んでから平家物語を読み返すと、あの月見のシーンが
よけいに哀調を帯びてくるのだ。

(都の宴では、彼ら、彼女たちはいかにも宮廷らしい、どこまでが本気で
どこからが戯れか分からないような恋の歌を交わしあったり、
ウィットに富んだ会話を楽しんでいる。)

あるいはまた、いよいよ都落ち、というときに資盛が右京大夫に
「都を去ったら、いっさい文は出さない。だが、自分が死んだら
弔ってほしい。。。」と言って去っていく。

(その後、ほんの数回だが、右京大夫から文を出し、また資盛からも
数回、ことに兄と弟が入水してからも文が来たと書かれている。)

これらのことは、平家物語を読むだけでも分からないし、
右京大夫の日記を読むだけでも分からないことだ。


中村氏は、「右京大夫もプルーストも、自然の連想によって意識の表面へ
浮かび上がってくる情景を、次つぎと叙べて行くので、そのために前後の
情景が微妙に溶け合って雰囲気を濃くして行くし、読者は知らないうちに、
次の情景のなかに招き入れられていることで、心理的な快感を味わうことになる。」
と述べている。
「プルーストはこのやり方を『無意識的想起(メモアール・アンヴォロンテール)』と
名づけている。」とも言っているのだが、
この時代の人びとが書いたことを少しずつ読んでいると、
平家物語を軸として少しずつひとつの世界(時代)が頭の中で構成されていく快感を
味わうことができるようにも思う。
19世紀にバルザックが「人間喜劇」として、
20世紀にフォークナーがヨクナパトーファ・サーガとして描こうとしたような世界が
12世紀の日本では、無意識(アンヴォロンテール)のままに形成されていったような
そんな気がしてくる。。。


時代がだいぶ落ち着いてきた1232年頃、
定家は後鳥羽上皇から勅撰集を作るように命じられ、
当時の歌人たちに家集を出してほしい、と求めた。
その折、右京大夫(当時70歳過ぎ)が提出したのが『建礼門院右京太夫日記』。
二通のうちの一通(写し)が人々の手に渡り、読み継がれるようになった。

右京大夫は39歳くらいから、今度は後鳥羽天皇に仕えることとなり、
哀しみをおもてに出さずにキャリア・ウーマンとして、
また周りのよき相談役として(再び)宮廷生活を送ったそうだが、
後鳥羽天皇とその宮廷での出来事についてはおそらく[意識的に]、
何も書き残していないようである。。。
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by youyouhibiki | 2007-12-19 18:47 |  平安~鎌倉の文学 | Comments(0)


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