カテゴリ:コルベ神父( 6 )

コルベ神父 (6)

1941年2月14日にコルベ神父は逮捕され、まずパヴァイアクへ、
そしてアウシュヴィッツの強制収容所に入れられます。
神父は収容所で人々を励まし、懺悔を聞き、
こっそりミサをあげました。
病人に自分のわずかなパンを与えることもありました。

ある時、コルベ神父のパンが盗まれましたが、
誰かが犯人をみつけ、とりもどしてくれました。
ところが神父は盗んだ人に再びパンを渡しました。

イスラム教徒がいると、宗教的な習慣や祝日を尋ねるなどして、
彼を慰めました。

アウシュヴィッツではまず第一にユダヤ人を、
次に神父や修道士を虐待したので、神父も「ポーランドの豚」
と呼ばれ、何度も殴ったり蹴られたり、笞打たれたりしました。
あまりにもひどく殴られたので病棟に移されましたが、
病室でも一番扉に近いベッドを選びました。
「ここにいれば、夜中に亡くなって運び出される人のために
祈ることができるから」。

しかし生きている人々には「希望を持って、
必ずここから生きて出るように」と励ましました。

7月に囚人の一人が脱走して捕まらないので、
罰として10名が餓死刑に処せられることになります。
無作為に選ばれた10名の中の一人が、
「ああ、かわいそうな妻と子どもたち!」と叫びました。
そのとき、コルベ神父が一歩、看守の前に進み出て言いました。
「私があの人の代わりに死にます」
「お前は誰だ」と聞く看守にコルベ神父は言いました。
「カトリック司祭です。私には家族がありませんから。」

通常だったら、コルベ神父は11番目の餓死刑囚になっていたと
思われます。
しかし、不思議なことに看守はそれを許し、
コルベ神父は選ばれていた一人と入れ替わりました。

餓死室に向かう10人。
そのときの夕焼けがあまりにも美しかったことを、
どの本も書いています。
『夜と霧』の中で「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と
囚人がつぶやいた、あの夕焼けと同じ美しい夕焼けです。

餓死室に入れられると、あまりの苦しさに気が狂うといいます。
隣の餓死室では、前から入っていた死刑囚たちが苦しみの声を
あげていました。しかし、コルベ神父たちの部屋から、
祈りの声が聞こえてきたといいます。最後まで平安で、
そこはまるで聖堂のようだった、と、後の証言が伝えています。

餓死室に入れられて14日目、ほかの9人が亡くなっても、
コルベ神父はまだ生きていました。
そして、あとがつかえていたので、フェノール注射を打たれて
亡くなりました。
1941年8月14日、享年47歳。
それはコルベ神父があれほどまでに愛した聖母の、被昇天の祝日の
前日のことでした。

     *

ルーマニア系のフランス劇作家イオネスコは、
オペラ『マキシミリアン・コルベ』の台本を書いていますが、
あるインタビューでこう語りました。

「私は、聖性が人類を救う、ということを知っています。」

     *
     *
     *

先に紹介した永井隆博士は『原子野録音』に自身の不思議な体験を記している。
要約すると、
1945年8月9日 長崎にて被曝。ガラス辺により負傷。特に右頚動脈を切断。
9月10日 原子病による壊疽により頚動脈から再び出血。止血できない状態に。
9月20日 出血がとまらず、危篤に陥り、終油の秘跡を受ける。
シェーンストーク(交代性無呼吸)。
本河内のルルドの水を誰かが飲ませてくれたとき、
「どういうわけであったか、マキシミリアン・コルベ神父のお取次を願え
という声が聞こえたようであった。
私の心は従順にそれに従った。」
その後、血はぴたりと止まった。大きかった傷もその後、目立たなくなったという。
(『原子野録音』「ルルドの奇跡」)

     *
     *
     *

参考文献
『コルベ神父 アウシュヴィッツの死』ダイアナ・デュア著 時事通信社
『コルベ神父物語』曽野綾子著 聖母の騎士社
『アウシュヴィッツのコルベ神父』マリア・ヴィノフスカ著 聖母文庫
『ながさきのコルベ神父』『身代わりの愛』小崎登明著 聖母の騎士社
『原子野録音』永井隆著 聖母の騎士社
『ゼノ死ぬひまない』松居桃樓著 春秋社
『イオネスコによる「マクシミリアン・コルベ」不条理から聖性へ』クロード・エスカリエ著
聖母の騎士社
『夜と霧』フランクル著 みすず書房

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by youyouhibiki | 2012-08-14 22:58 | コルベ神父 | Comments(0)

コルベ神父 (5)

布教のために無料の雑誌をつくり、その発行部数は毎年うなぎのぼり、
最近の印刷機とシステマティックな修道会経営…。
それだけなら、そうとうな成功譚です。

あるいは、ひとりの神父がいて、アウシュヴィッツで
ほかの死刑囚の身代わりになった。キリスト教では
「汝の隣人を愛せ」と言われている、まさにそれを身をもって
実践したのだ。となると、多くの人がなるほど、と思うでしょう…。

ところがコルベ神父の伝記には、奇跡の話が多く出てきており、
奇跡を信じない人を惑わせます。
しかしコルベ神父の伝記を読むと、
奇跡がコルベ神父の行動の核心であったことがうかがえます。

     *

マキシミリアン・コルベ神父は1894年1月8日に
ポーランドで生まれました。
マキシミリアンという名前は神父になったときに付けられた名前で、
幼名はライモンドと言います。
熱心なカトリック信者である両親に育てられましたが、
ライモンド少年は、とても腕白だったようです。あるとき母が
「こんなにいたずらばかりして、いったいこの子はどうなるのかしら」
と嘆いたことがありました。自分でも不安になったライモンドは
教会に行き、聖母マリアに尋ねながら祈りました。
「ぼくはいったいどうなるのでしょう」と。

すると聖母が現れ、白い冠と赤い冠を見せてどちらがほしいかと
聞きました。
白い冠は純潔を、赤い冠は殉教のしるしだと言われたので、
「両方ほしい」というと、マリアはにっこり微笑んで
消えてしまいました…。

それが夢だったのか幻覚だったのか、あるいはほんとうの
ことだったのか、それは誰にも分かりません。
が、コルベ神父はそのときから以前の腕白な少年ではなくなり、
つねにイエスと聖母マリアを胸に抱く生活をはじめることになりました。
(このことを彼は母にだけ打ち明けました。)

就学する頃になると、彼を援助する人が現れて学校に行くことが出来、
やがて神学校に入ることになります。
ロシア領(=ロシア正教)に住んでいた彼は、密出国をして
オーストリア領(=カトリック)に行き、
コンベンツァル聖フランシスコ修道会の神学校に 入学しました。
マクシミリアン(マキシミリアノ)という名前をもらい、
以後マクシミリアン・マリア・コルベと名乗ります。

ポーランドが他国によって統治されているという現実の中、
愛国心に燃える彼は、自分を軍隊の指揮官だと想像して
いろいろな戦略を練るのが好きだったそうです。
数学や科学が好きな少年でもありました。
晩年、チェスがとても得意だったというのも、このエピソードに
通じることかもしれません。

そしてある日、ポーランド統一のために軍人になろうと決意し、
神学校の長(=管区長)にその決意を打ち明けに行きます。
ところが故郷から母がやってきて管区長とちょうど話を
しているところだといいます。いったいどうしたことかと思って
母に会うと、母は「自分と夫は修道院に入ることを決意したので、
そのことを知らせに来た」と言います。

すでにライモンドとその兄が修道士、そして今回弟も修道院に
入ったので、自分たちも安心して修道生活ができる、
と喜ぶ母に、とても軍隊に入る、などとは言えず、
彼は軍隊に入ることを断念します。
しかし、それを神が示した道だと感じ、修道士として
一生を送ることを決意しました。

(その後第一次世界大戦がはじまると、兄と父は修道院から出て
銃をとり、兄は何度も負傷、父は捕らえられて絞首刑となっています。)

1912年に18歳でローマの神学校に入り、1914年に、
終生を修道士として過ごすことを誓う「盛式誓願」を立てます。
当時のローマではフリーメイソンの活動がさかんで、
「悪魔がバチカンを支配せよ」などという旗を振って
反カトリック運動をしたようです。それに対して彼は、
「祈りつつ」「聖母マリアの不思議のメダイを配る」信徒の会
「汚れなき聖母の騎士信心会」を仲間と設立します(1917年、
当時23歳)。

不思議のメダイ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%80%E3%82%A4
(コルベ神父はこれを「聖母の弾丸」と呼んでいました。身に着けていたメダイに銃弾があたって命を取り留めた人もいたそうです。)

その頃、神父は肺結核にかかります。1919年には哲学博士、
神父となり、ポーランドに帰国しますが、27歳のとき
片肺を切除します。しかし病状はさらに悪化。
医師からはあと一年も命はないと言われながらも、神父は
何年も何年も生きながらえました。
1922年、28歳のときに「聖母の騎士」誌を創刊。

ポーランドでの修道院の拡大、しかしその立場に安穏とすることなく
1930年に日本に来ました。(日本滞在中は、インドでも
『聖母の騎士』を発行することを試みていますが、
それは実現しませんでした。)

日本を去る前にコルベ神父は、自分がやがて殉教するであろうことを
仲間にほのめかしていたそうです。そして1936年に、
本国の修道会に呼ばれて帰国し、自分が創設した修道院の長に
選ばれました。戦争がポーランドを覆い始めた、
ちょうどその頃のことでした。

コルベ神父の言葉です。

「自分のために何かを願うのではなく、他の人びとのためにだけ
願いなさい。つい自分のために祈ってしまうのであれば、
忍耐強く仕事ができますようにと無原罪の聖母に祈りなさい」

     *

補遺:
『ゼノ死ぬひまない』(松居 桃楼)によると、
当時の聖母の騎士会の会則には、「聖会に仇(あだ)するもの」のために
たたかう、とあるという。
(現在の会則では、「けがれなき聖母マリアのご保護のもとで、罪びと、
異教徒、異端者、特に秘密結社員の回心および、すべての人々の
成聖を求める。」とある。)

フリーメイソンをはじめ神を否定し、他の価値観を信じる人たちに対して
「騎士」となって聖母のためにたたかうという強い意志が
「聖母の騎士会」という名前には込められていると思われる。

2017年5月追記 コルベ神父のつくった信心会Militia Immaculataeの
Militiaとは Militaryの語源であり、コルベ神父の思いの中には、
悪と戦う意思と姿勢があると思う。
不思議のメダイを「弾丸」と呼んだのも
武器という意味あいもあると思われる。
しかしもちろん、コルベ神父が望んだのは
教会に敵対する人々が傷ついたりするようなことではなく、
人々の改心なのである。

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by youyouhibiki | 2012-08-14 22:40 | コルベ神父 | Comments(0)

コルベ神父 (4)

コルベ神父(3)に続けてアップします:

     *

1922年、コルベ神父が28歳のときに『聖母の騎士』誌は
5000部でスタートし、1931年には43万部、1935年には
70万部に達しました。

(いったいこれがどのような数字だったかは、こちらなどをご参照ください。
週刊誌(一般週刊誌) (2008年資料)
雑誌名 出版社名 発行部数
AERA 朝日新聞社 出版本部 193,489
サンデー毎日 毎日新聞社出版局 136,234
週刊朝日 朝日新聞社 出版本部 303,502
週刊アサヒ芸能 徳間書店 271,347
週刊現代 講談社 633,367
週刊新潮 新潮社 736,665
週刊大衆 双葉社 358,004
週刊プレイボーイ 集英社 361,875
週刊文春 文藝春秋 776,724
週刊ポスト 小学館 554,250
SPA! 扶桑社 213,973
読売ウイークリー 読売新聞東京本社 105,796
週刊実話 日本ジャーナル出版 300,000


帰国後、「(聖母の騎士運動のためには)時代に
取り残されないことが大切である」という考えのもと、
神父はポーランドの修道院にラジオ放送局を設置し、
4発の飛行機が離着陸する飛行場を作ることも計画します。

また、おもしろくて内容のあるカトリック映画を作るために
当時の一流スターと契約することも考えていたそうです。

1939年、『聖母の騎士』は100万部を突破し、
修道士は700人となります。

修道院内では衣料類も手作り、洋服の仕立てや靴の制作場所が
設けられました。
食料品は近隣農家から買いましたが、そのために農家との
共同体意識が芽生える結果となりました。
病気になった修道士のためには専用の病室があり、
病人は貧しい修道院の中では最高の待遇を得られるのでした。

コルベ神父は病人たちに言いました。
「聖母の望まれる私たちの仕事がうまくいくように、
あなたはここで祈っていて下さい。」

食事の前に、修道士たちは全員で声をそろえて祈りました。

「神は愛であり、愛にとどまる者は神にとどまる。
そして神はまたその人々のもとにとどまる。」

     *

1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始しました。
神父は、すでにそのことを見越しているようで、侵攻一週間前に
修道士たちへの説教の中でこのように語っていました。

「(準備、活動、受難という人生の三段階があるとすれば)
間もなく第三段階が私に訪れると思います。
私は騎士のように死にたいと思っています。
……これ以上に高貴なことを想像できるでしょうか。
キリストご自身もこうおっしゃっています――友のために
自らの命を投げだすこと以上に大きな愛はない、と。」

すぐに修道士のうち帰れる家のある者は返し、
修道院には36名の修道士が残りました。
かわりに神父はその門戸を開放して、市民、兵士の別なく
避難者、傷病者を迎え入れました。

1939年9月19日、コルベ神父たちはナチス軍に逮捕され、
アムテイツ収容所に送られますが、
12月にはいったん解放されます。

修道院に帰ると、神父は『聖母の騎士』発行の許可を
ゲシュタポに求め、ワルシャワ地区限定ということで
なんとか許可を得ます。
12万部が印刷され、ほとんどが手渡しで配られました。

コルベ神父はこのように書きました。

「この世の誰も真実を変えることはできないのです。
ですから皆さん、真実を見出して、そのしもべとなりましょう。
……どんなに強力な宣伝機関も真実をねじ曲げることはできません。
本当の闘いは心の内面の闘いなのです。
占領軍も、抑え難いさまざまの情熱も、絶滅収容所も
何も関係ありません。一人ひとりの霊魂の最も深いところに、
和解することのできない対立、つまり善と悪、罪と愛が
存在しているということなのです。
ですから、もしわれわれが自我の最も深いところで敗北するならば、
戦場での勝利が何になるでしょう。」

「善は、神の愛と愛よりわき出るすべての事物とのうちに
存するのであるから、悪の本質は、愛の否定にほかならない」


1941年2月17日、コルベ神父は再び逮捕されますが、
「それは真実と信じることを恐れず発表するジャーナリスト兼
出版人としてであり、断罪さるべきポーランドの『知識人』の
一人として」であった、と『コルベ神父 アウシュヴィッツの死』)
には書かれています…。
  
  
  

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by youyouhibiki | 2012-08-14 22:36 | コルベ神父 | Comments(0)

コルベ神父 (3)

1930年にコルベ神父は日本に行って
日本語の『聖母の騎士』誌を出すことを思い立ちます。
ゼノ修道士ら4人の修道士とともに長崎にやってきますが、
「お金ありません」「日本語わかりません」という状態でした。

しかし、長崎の神学校でコルベ神父が神学を教えるという条件と
引き替えに雑誌を出す許可を得て、ともかく日本語版『聖母の騎士』は
発行されることになりました。
4月24日に日本上陸して5月24日にはポーランドの修道院に
このような電報を出しています。

「今日創刊号を送る。印刷所も設置した。無原罪聖母万歳。マクシミリアン」

ポーランドにいたときも、コルベ神父たちはすべてのお金を
雑誌刊行に当てていました。
冬、厳寒の地で、外套や長靴がなくてはやっていけないのに、
二人で一組分を共有していました。ですからひとりが外出するときは
もう一人は外出できませんでした。

コルベ神父は、20歳くらいのときに肺結核にかかり、
片方肺を摘出していました。
もう片方の肺も半分しか機能しませんでした。
呼吸もままならず、微熱、頭痛などに悩まされていましたが、
重い紙を運ぶ馬車代ももったいないからといって利用しませんでした。
「いったいいつ寝ているのか」というくらい、
ほとんど不眠不休で祈り、働きました。

日本にきても、お茶に入れる砂糖代すらも節約し、
不眠不休で印刷をしたといいます。
最初は印刷所に頼みましたが、お金がかかるので
自分たちで印刷機と活字を買いました。

日本語の『聖母の騎士』ができるまではこういったぐあいでした。

まず、ポーランド語でコルベ神父が原稿を書き、
翻訳してくれそうな数名の日本人修道士のうち、
手があいていて翻訳してくれそうな人に何語ができるか聞きます。

コルベ神父は、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、ラテン語などが
できたので、相手のできる言語に自分で訳します。
それを修道士が日本語に訳し、活字を拾い(ルビ付きだった!)、
手回しで印刷する。
はじめて自分たちでつくった『聖母の騎士』第三号は1万5000部、
16ページ立てだったので8ページ刷りの手回し機を3万回
回したことになります。
紙も半分に切らなくてはならなかったので、
まとめてノコギリで断裁したのだそう。
そしてそれを手折りにする。寒い時期は指に血がにじむことも
あったといいます。
綴じだけはゼノ修道士が足踏みの綴じ機を考案したのでラクだったといいます。
最後はさすがにまわりを業者に化粧裁ちしてもらったそうですが…。

しかしそもそも活字を拾うといっても、日本語分からないので、
原稿にくずした字があったりするとたいへんだったようです。
しかも活字はさかさまだし…。。
原稿の字が活字にない、というのであわてて活字を買いにいったら
「その字はこれですよ」と言われたことが何度もあったようです。
夏の暑い時期は汗をかくので足もとに汗がたまり、
乾いて塩がふいていた、というのも決して神話ではありませんでした。

長崎はもともとカトリック信者の多い土地ですが、
信者だけではなく一般の人、プロテスタントの牧師さん、
お坊さん、など多くの人たちが手をかしてくれました。
「どんな雑誌を出しているか」よりも「あんなに熱心に、
しかも自分を犠牲にしてやっておられるのを見過ごしにできない」
ので、手伝ってくれたようです。

『聖母の騎士』は1932年には日本での発行部数は
5万部になりました。
長崎の本河内というところに広い土地(ただしそこは昔の
キリシタンの処刑地で、馬や牛など家畜の死骸を捨てる場所に
なっていた)をなんとか購入して小神学校をつくるところまで
こぎ着けました。

コルベ神父は1936年にポーランドの修道院に呼ばれて戻りますが、
本国からかわりの神父がやってきて監督にあたり、ゼノ修道士らは
残って、引き続き『聖母の騎士』の刊行にあたりました。

この雑誌は、いまもあります。
先日、教会に行ったついでに売店で買ってきました(写真)。
さすがに有料ですが、B5版本文36ページモノクロ、
定価は140円でした。
8月号はコルベ神父が亡くなった月でもあるからか売り切れ。
9月号の「編集室から」には、1932年にポーランドから
やってきたセルギウス・ペシェク修道士が100歳の誕生日を
迎えた、と書かれていました。

     *

主に印刷にスポットをあててコルベ神父について書いてきましたが、
コルベ神父はどうしてこんなに熱心に『聖母の騎士』発行に
情熱を燃やしたのか? とお思いの方もいらっしゃると思います。
うまく伝えることができるか、はなはだ疑問でありますが、
次回はそのあたりを書こうと思います。

     *

以下に載せるのは、長崎でコルベ神父に実際に会った永井隆氏の
文章です。
私が読んだ資料の中で、直接コルベ神父に出会って書かれたのは
(今のところ)これだけですので。

     *

「微笑の秘けつ」   永井隆(『原子野録音』より)

 長崎市本河内の彦山のふもとに荒野を開いて聖母の騎士修道院が建ち、ようやく市民の目をひくようになった昭和10年のことだった。
 私が訪れたとき、コルベ神父さまは自室で机にむかっておられた。部屋といっても2、3人やっとはいれるくらい粗末なバラックで、私は初めは物置かと思ったほどだった。十字架とマリア像と聖書と祈祷書と書類とペンと筆のほかには、目ぼしい物は見当たらなかった。コルベ神父さまは初対面の私を迎えて、身体じゅうが微笑むような姿で両腕をひろげて差し伸べられた。握ってみると、大きな熱い手だった。私はこれは38度を越す熱があるな、とびっくりした。「御病気じゃありませんか?」とたずねた。
「ドクター、みて下さいますか?」
と神父さまは相変わらず微笑みながら言われた。私は聴診器をとり出して診察した。そして、あわてたように大声でいった。「これは大変です。神父さま、両方の肺が結核におかされているようです。しかも重い。すぐに絶対安静を守らねばなりません」。
 神父様はやっぱり微笑をうかべなばら、「ありがとう、ドクター。あなたは名医です。なぜならローマやポーランドや、その他の国々で有名な医者にみてもらったときと全く同じ診断を今あなたが告げましたから。アノネ、10年前からいつも同じ診断ですヨ」としずかに言われた。
「えっ! 10年前から?……」
 私はそう叫んだきり、息をつめて神父さまを見た。微笑んでおられるが、呼吸は楽ではなさそうだ。たった今、聴診器を通して知った肺の中の大中小さまざまの激しいラッセル音が耳にこびりついていた。この重い肺病をもちながら、世界じゅうを走りまわって聖母の騎士運動を長い年月続けているとは! しかも10年前から病状は固定して、好くも悪くもならないとは!
医学の常識ではとても考えられないことであった。肺の5分の4はおかされて役に立たぬし、高い熱は続いているのだから、普通の病人なら、すでに寝こんでしまっているはずである。私がしきりに首をひねって考えこんでいると、神父さまはロザリオをさし上げて、「これですヨ、これですヨ」と、うれしそうに言われた。
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by youyouhibiki | 2012-08-14 22:30 | コルベ神父 | Comments(0)

コルベ神父 (2)

コルベ神父の続きです。

最近、印刷物についての関心が高いこともあって、
コルベ神父の伝記の中でも、神父が発行した印刷物のほうへ
興味が向いてしまいました。
なので、そのあたりについて書きます。

     *

コルベ神父は、1907年に兄とともにコンベンツァル聖フランシスコ会に入会。
聖母マリアに対する信仰が厚く、
ローマの神学校で勉学中の1917年に『けがれなき聖母の騎士会』という
信者の集まりを設立しました。


そして、ポーランドに帰国すると、『聖母の騎士』という冊子の
発刊を決意します。

修道院内での反対があり、金銭的な援助もないままに
第1号を5000部印刷。2号、3号と出すうちに
印刷機を買って、修道院内で印刷することを思い立つものの、
お金がない。。。
ところが、たまたまポーランドに来ていたアメリカ人の神父が
話を聞いてその先見性を認め、100ドルを寄付する
という幸運により、印刷機を購入することができました。
1925年には「電動の」印刷機を購入。(それまで、手回しだった!!)
発行部数は月6万部に及びました。
1930年に神父は来日しますが、当時の印刷部数は「月30万部に
ほんの少し足りない」という状態でした。

いったいどうして、これだけの発行部数になったのでしょう?
このようなことが揚げられると思います。

●ポーランド語で書かれていた。
 カトリック教会はラテン語が公用語であり、社会的に言うと、
 外国語のほうが上と見られていた。
 そのような中、コルベ神父は皆がわかるポーランド語で
 原稿を書いた。

●ポーランドの人々の信仰心に訴える冊子だった。
 「他の雑誌が、官能を強く刺激するような記事を並べたり、
 大衆の怒りや憎しみをそそのかし、心配をつのらせることで、
 読者の共感を得ようとするのに対し、ひたすら聖母への信心を
 訴えた。」(『ゼノ死ぬひまない』参照)

●貧しい読者よりもさらに貧しい修道士が出版していることが
 読者に伝わったから。
 『聖母の騎士』は、あくまでも「無料」の冊子だった。
 冊子のうしろには、このような文字が書かれていた。
 「わたしたちも貧しいけれど、余裕のない方は、決して
 誌代について心配なさらなくていいのです」
 読者にこの熱意が伝わり、逆に送金が増えた。
 しかし、送金が増えると発行部数を増やすので、
 決してコルベ神父たちが金銭的に富むことはなかったのだけれども。。。

コルベ神父は1930年から1936年まで長崎に来て、日本語で
『聖母の騎士』を刊行するのですが、本国での『聖母の騎士』は
1931年には43万部、1935年には70万部に達したといいます。
修道院は最新式の輪転機が置かれ、一時間に2万部の印刷が
可能となっていました。

これだけの働きをするコルベ神父に対して、カトリック内での
軋轢は逆に強まり、安穏に過ごす他会の修道士たちからは
変人扱いされましたが、神父は活動を続けました。
すると『聖母の騎士』の運動に賛同し、修道会に参加したいという
人たちが1800名も現れることになったのです。
神父は、その中から100名を修道士として認め、その後も数は増えていきました。
1939年当時、修道士の数は700名、神父の数は6名だったといいます。

中世以来、修道士(修道院の中で主に労働をする役割の人たち)は、
神父よりも下に置かれていました。
しかし、コルベ神父はそのような上下関係を好まなかったし、
労働に対する偏見も持っていませんでした。
修道士が大多数を占める修道会というのは、
当時のカトリック界で画期的だったのと同時に、
民衆の心をもとらえます。
時代の変化と要請を、コルベ神父は
しっかりとらえていたと言えるでしょう。



(注)
『聖母の騎士』の運動とは、「聖母マリアは、生まれながらにして
無垢清浄だった」という信念の上に、この世の中の現象の
一つ一つを判断し、日々を行動して行こう。そのうえに、
全人類がそういう「心」をもつようになってくれることを
祈ろう、という運動。
発足の1917年はロシア革命の年であり、ヨーロッパでは
他宗教、無宗教、他の価値観、思想などが広まっていた。
当時の『聖母の騎士』誌の内容については、なかなか引用文が見あたりません。
見つかったら掲載したいと思います。

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by youyouhibiki | 2012-08-14 22:23 | コルベ神父 | Comments(0)

コルベ神父 (1)

コルベ神父について、以前(2008年)書いたものがあったのですが、
データを無くしてしまいました。
仕事柄、ファイル管理はいつも厳重にしているのですが、
ふと気づいたら、どこに行ったか分からなくなっていたのです。

それから数年たって、古いドライブに入っていたものを発見しました。
もう失くさないように、こちらに載せたいと思います。

1941年8日14日に、コルベ神父はアウシュヴィッツで亡くなりました。

   *

(コルベ神父は)1941年5月にナチスに追われるポーランド人やユダヤ人をかくまった咎で捕らえられ、アウシュビッツの強制収容所に送られた。

1941年7月、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツィシェク・ガヨフニチェクという男が「私には妻子がいる」と叫びだした。ナチスによって10人が連行されようとしたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。ナチスでは反カトリック、反聖職者的な雰囲気が強かったため、この申し出を特別に許可。コルベと9人の囚人が地下牢に押し込められた。

通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。時折牢内の様子を見に来た看守は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、薬物を注射して殺害された。

(以上、wikipediaより)


     *

松居桃樓氏は『ゼノ死ぬひまない』という本の中で、このように書いています。
「みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇跡的に生還したフランクル教授は、その名著『強制収容所における一心理学者の体験』の中で、こういう意味のことを言っている。『もはや、この世に幸福が、何一つ残っていないと思われるような時でも、人間は、何かを愛し、その愛する者に、すべてを捧げることによって、本当の幸福を発見できる。』彼はさらに、『誰かの死の苦しみを取り去るために、自分自身が、その人に代わって苦しんで死のうと決心した人にとっては、もう死ぬことさえも苦しみではなくなってしまう』とも言っている。彼は、それを身をもって実験し、そのおかげで、アウシュビッツの苦しい生活を生きぬくことができたのだ。だが、そのことを、まったく別の角度から証明したのがコルベ神父だった。」

コルベ神父は、1930年にポーランドから長崎に来て、「聖母の騎士」という無料冊子(フリーペーパー)を編集・印刷し、配り続けました。
1936年帰国、そして第二次世界大戦が起こり、神父は捕らえられたのです。

この数ヶ月、コルベ神父は「悪」をどうとらえていたのだろうか、と、ふとそんなことを思って、神父の伝記などを読み返していたのですが、それとは別に、コルベ神父が長崎にいたときに永井隆博士に会って診察を受けていたこと、一緒に来日したゼノ修道士が戦後の日本で何をしたか、ゼノ修道士に出会った北原怜子(さとこ)さん(「蟻の町のマリア、と呼ばれた人)が何をしたのか、ということなどは、いまの若いカトリックの人たちもきっと知らないだろう…、などということを考え、歴史が風化するとはこういうことなのかなぁ、と思ったりしていました。

先日来、ある年配の方のブログで、ご自身が体験された第二次世界大戦当時のことやその記憶のことなどが話題になっていました。
私自身は、戦後の生まれで戦争を知りません。ですが、戦争の匂いがまだ残っていた時代を知っています。
コルベ神父、永井隆、ゼノ修道士、北原怜子さんと戦前戦後のことは、本を読んだことの寄せ集めでしかありませんが、今後ポツポツとでも書くことができればと思っています。
(2017年4月追記:コルベ神父については何とか書いたものの、それ以降何も書かずにおります。)




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by youyouhibiki | 2012-08-14 22:14 | コルベ神父 | Comments(0)


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