久しぶりの自費出版
特装本とスリーブ
著者は松本市民として長く市政に関わられた方(86歳)で、
製糸業その他で賑わった頃から松本城下の市街地整備、
松本山雅FC応援に至るまで、旧懐を織り交ぜながら
書かれています。その根底にあるのは
常に自分たちの住む地域の幸福と活性化であると思われ、
その姿勢に学ぶところが多いです。
もともとが呉服商でいらっしゃったので、
特装本(50部)は着物の生地を使っています。
地元を応援したいということで、編集・印刷・製本は
長野県を本拠地とする会社が担当し、
私は、装幀と組版の助っ人としてお手伝いをしました。
(その後、ISBNを付けたり販売したりする都合で
私のほうで発行もお受けすることになりました。)
編集の今井さんががんばり、長野県内の大手書店に
置いてもらっているようです。
映画から本へ
そのモヤモヤした気持ちの手がかりになるかと思って、映画の帰りがけに買ったのが渡辺京二の『原発とジャングル』です。
ここでは、「ジャングルと原発」「原初的正義と国家」「労働と交わり」という章立てで論を展開させていますが、その中の「労働と交わり」では、アーレントの『人間の条件』にある人間の基本的な諸活動の分類について真っ向から反対意見を展開させています。
『人間の条件』についての反対意見と『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』以降の“悪の凡庸さ”の指摘とは隔たりがあるのではないかと言われるかもしれませんが、この本では要するに哲学者や聖職者が説く「目覚めよ」という言葉への対立概念を述べているので、「悪の凡庸さ」にも(本にそう書かれているわけではありませんが)話は及ぶと思われます。
『原発とジャングル』は『逝きし世の面影』が好きな方にもアーレント・ファンにお薦めかと思います。
『人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源』という本
ダーウィンが
先史時代のことに及ぶので、仮説を証明することは不可能と思えますが、
さらに口笛、ハミング、吃音や失語症と種族・民族(言語)との関係、
私にとっては、大げさに言うと言語世界と非言語世界の価値基準がコペルニクス的に転換した?
歌の中の歌 メモ
今日は、神楽坂へ望月さんの作品を見に行きました。実は2度目。先日のお話、メモから抜粋。
「工芸とは何か1 絵と言葉」より
望月通陽 高木崇雄 対談 2017年9月29日
「雅歌」は恋愛詩であるが、なぜ聖書にあるのか、バッハのマタイ受難曲に俗歌が取り入れられたことで力を帯びたように「聖」だけでは弱いのではと思う。
「雅歌」は抜粋ではなく全篇を版画にしている。端っこ、切れ端ではない。
イタリア語で入れたのは、イタリア語のリズムが好きだから。自分にとって作品をつくることで聖書を読んでいる。仕事を通して、手を動かして読むのが自分の読み方である。
「雅歌」を型染にしたわけだが、型染の色気に「雅歌」があっていると思った(エッチングなどより)。糊を指で一部こすったりした。肉体的に「雅歌」に参加したいと思った。
ブリキ絵に対する返歌という意味合いが今回の作品を作る動機にあった。
ブリキ絵はメキシコの奉納画で、祈りが成就したときなどにお礼に描き、教会や祠のようなところに納められる。高校3年で染色屋に弟子入りして20歳のときに柳宗悦の『工芸への道』を読み、うちのめされた。「無作為」や時間の経過にはとても太刀打ちできないと思ったからだ。
「用の美」の「美」という新しい日本語の前に多くの職人が面食らい、たじろいだはず。「いつくしみ」とか「いとおしさ」と言われたらまだ分かったのではないか? それで方向を失った人も多かったのではないだろうか。自分は、職人にとって無意識であり続けることは、無理なことだと思った。
(高木さん:実は柳の全集を見ても「用の美」ということを書いていない。「用即美」などという言葉があり、用と美が不即不離だということは言っている。当時の帝展・日展系の画壇に対する批判を込めたプロパガンダ的な意図から強い言葉を使っている。)
それが今回、祈りだけを主眼としているブリキ絵を見て、それに意識的な仕事で向かいたいと思ったのが、作品制作の主な動機である。
ブリキ絵はわりあい古いもの(19世紀くらい?)であるが、現在描かれたブリキ絵にはこれほどの存在感があるのだろうか? 自分は(今という時に)健康な状態で作品を提供したいと考えている。
タペストリー、のれんは風で動き、ある時、動画のようになる。その時、線が生きてなければならない。
骨董の味を、今のものに出せるわけはないし、比べられるのは屈辱的だ。比べるべきではないと思う。柳がいた時代には「美」という言葉を用いて説得せざるを得なかっただろうと思うが、弊害も大きかったと思う。また、手に頼らざるを得ない時代と同じことをやれと言われたら、自分に時代をくれ、と言いたい。
自分は隙があれば絵を描きたい。絵を描かせてほしいと思う。
高木さんと:(展示が行われている)一水寮悠庵(昔、大工さんの寮だった建物)では、建物が生きていて、場が語っている。暮らしと展示はつかず離れずがよい。そのすりあわせが難しい。
陶芸では、自意識が焼けてなくなる。スリップウェアなどは雑器として作られたものだが、新しい表現はあまり試みられていないように思う。人が見えない仕事は退屈だと思う。自分がつくりたいものをつくるとき、作為は必ずある。人間だもの。無作為なはずがない。
今回ヘラ描きのタピストリーをつくった。(と、ここでヘラ描きの説明絵をホワイトボードに)。
糊は餅粉と糠と石灰をあわせてつくる。京友禅、沖縄の染色、出雲風呂敷など様々なものがあるが、それらは糊を媒体とした表現である。
表現したいという欲求があるが、職人というほど技巧を使いこなしていない。乏しい技法で自分は表現する。染物屋と言えないので、自分は卑下して染色家と言っている。
作品をつくるとき、時間をアテにしてはいけない。「今」が作品であり、「手を離した瞬間が作品の一番幸福な状態であるようにと心がけている。
絵だけ、文字だけ、絵と文字、思考は自分にとって同じである。モジリアニの絵のサインを見た時、絵と分かち難いと思った。どちらが時でどちらが絵でもよいという幸せな状態に私たちはなれる。
例えば東洋の「書」も、意味が分からないこともあり、建物や橋のように造形として見ている。毎日デッサンをして、100ページのデッサン帳が、今年すでに13冊目である。とにかく毎日描いていると、何かちょっと成長するから。ボールペンで、朝の5時に。
描くのはこういう感じのものを(ホワイトボード裏面に線描き)。そしてその線が顔に見えたら顔にして、文字(日付などを英語などで)を入れてみたりする。線が伸びたいように伸ばす。ラジオ体操のように描く。アルファベットも毎日。絵と字が一体になれるようだ。
「工芸とは何か」ということについて、柳の言葉に挫折したが結局自分に従ってやってきた。
本のこと、詩歌のこと、美術展のこと、and so on...
by youyouhibiki
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